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今日も他人事

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209年 ~荊州分裂~



年の始まりと共に、一つの報告が劉備の下に届きました。

『曹操、北伐を完了し、南征を決意』

既に袁紹の残党勢力は討伐され、遼東の独立勢力であった公孫康も曹操の軍門に下っていたのです。

曹操が大々的に南征の決意を固めたために、益州、荊州、揚州はそれぞれ身の処し方を考えなくてはなりませんでした。

この頃、荊州では劉備軍が新野、上庸の軍備を固めるとともに、『天下三分の計』を実現する為の方策を講じていました。

表向きには劉表の後継者問題に対して中立の立場を取りながら、密かに長子である劉キの幕僚達によしみを通じていたのです。

本来なら長子である劉キが家督を継ぐ筈でしたが、劉表の後妻である蔡夫人が寵愛を受けており、その息子である劉ソウを後継者に推していため、家内が二つに分かれていました。

しかも、蔡帽を始めとする蔡一族が荊州の実権を掌握しており、それに対抗できる力を持った家臣はいなかったので、劉キは後ろ楯もない状態でした。

諸葛亮は密かに劉キに会うと、申生と重耳の故事を挙げ、蔡一族から身を守る術として、襄陽を離れて江夏へと赴任することを勧めます。

その一方で、劉表軍の家臣の中で交友のあったホウ統や伊籍に、江夏にて劉キを補佐し、変事が起きた際には劉備軍を頼るように劉キに勧めることを依頼しました。

時を暫くして、劉表が病没し、劉ソウが家督を継ぐと、蔡帽は曹操に降伏するように進言します。

劉ソウは躊躇しますが、蔡帽は曹操の勢力が極めて盛んであり、その保護下に入ることで荊州の民を争いから遠ざけることができると説得しました。

劉ソウは曹操に使者を送り、荊州は曹操に伏すると伝えましたが、荊州の民や武将の一部がこれに反発し、劉キの下に集まります。

事態を重く見た劉キはホウ統らの進言を受けて、劉備のいる新野に赴き、協力する旨を伝えます。

この結果、襄陽は曹操軍、江夏は劉備軍と、荊州北部は真っ二つに分かれることになっていきました。

諸葛亮はホウ統、徐庶らと荊州を劉備軍の勢力下に置く為の策を練ります。

彼らが目を付けたのが襄陽の南に位置する江陵でした。江陵は荊州の中央に位置し、揚州や益州へと通じる要衝だったためです。

しかも、荊州分裂の混乱によって当時は空白地帯になっており、襄陽の蔡帽や揚州の孫権に奪われる前に、なんとしても抑えたいものでした。

考えた末に諸葛亮は、劉キ軍に江夏を放棄させ、全軍を率いて江陵を占拠するように進言します。

当時の江夏は隣接する揚州の孫権から度々、攻撃を受けている不穏な地域でした。

劉キ軍一万の将兵を無傷で温存し、かつ江陵を占拠することができれば、江夏を孫権に譲り渡すことも問題ではない、と考えたのです。

また、曹操軍と戦っていく場合には孫権は手を結ぶべき相手であり、江夏を巡って禍根を残すべきではないとも考えたためです。

こうして、孫権軍との交戦を避けながら江陵を占拠する一方で、新野と上庸では襄陽攻略軍の編成が進められていました。

総指揮は歴戦の勇将・関羽、軍師には諸葛亮と馬ショクが付き、兵力はおよそ三万五千。

その内、一万が新設されたばかりの騎兵部隊、一万五千が重装備の攻城部隊でした。

騎兵部隊の指揮は劉備の義弟である張飛、そして魔王董卓の孫娘である董白。

一方、攻城部隊の指揮は諸葛亮が執り、その妻である黄月英とトウ芝が五千ずつの部隊を率いていました。

それまでの劉備軍では、新野の険しい地形のため、騎兵部隊は後回しにされ、歩兵部隊の充実が優先されていましたが、荊州と益州の攻略に備えて、密かに上庸にて、軍馬の調達と攻城兵器の生産が進められていたのです。

それに歩兵一万を加えた劉備軍は襄陽北部の平原にて蔡帽、満寵らの二万を打ち破り、襄陽を占拠しました。

この時、劉ソウは既に襄陽を脱出していましたが、主だった襄陽の将軍達の大半が捕虜となりました。

劉備から全権を任されていた関羽は、蔡帽ら蔡一族を、荊州を曹操に売り渡した不忠の臣として、蔡夫人を除いて、悉く処断します。

こうして、劉備軍は遂に荊州北部を領することができましたが、その攻略の為に防備が手薄になった隙を突き、再び曹操軍が上陽、新野へと侵攻。



その中で上庸の趙雲が曹仁を一騎打ちで討ち取りこそしたものの、曹操は手を休めることなく、夏候淵、張コウ、曹洪らを次々と送り込んでくるのでした……。



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